怒りを忘れるな

最近何にも怒っていない。以前は万物に怒り、わめき、睨みつけていたにもかかわらずだ。よいことである。人間は常に機嫌よくあるべきだから。

導入としてとりあえずここまで書いて、そんなわけないだろうと思った。機嫌よくあるべきなわけがない。たとえ私以外の78億8799万9999人が楽しそうにしていても私は常に怒っているはずなのだ。それなのに私は今日も昨日ものほほんと楽しく食い、風呂に入り、寝ていた。私は今そのことに激怒している。だからこうやってノートパソコンのキーをバチバチと叩いているのである。ではなぜ私は怒っているべきなのか。

椎名林檎の流行という曲がある。久しぶりに聴いて、ああいい曲だなあと思い、そのことに気づき驚いた。この曲の歌詞について大まかに述べると、男性の好み(=流行)に乗って(あげて)男性好みの女性を演じよう、という内容である(と私は解釈している)。私は初めてこの曲を聴いたとき、はっきり言って受け付けないと感じた。どれだけ誰かのことを好きになっても、その人の好みに合わせて自分が変化したいとは全く思えなかったからだ。加えて、「広い心で夫の言うことを聞いてあげるのが賢い妻」的な言説を思い出したというのもある。どんな状況であれ、一方が(本当は私の方が立場が強いから)相手の要求を呑んで”あげ”ようと考える関係性は、少なくとも私が志向するものではない。誰かが私より強い立場にある(と考えている)から私の要望を通すのなんてクソくらえと言ったところである。たとえ大富豪があなたより資産がありますからと言って私に別荘を買い与えようとしても、私はその大富豪の顔につばを吐きつつしんで辞退するだろう。

話がそれてしまった。なぜ恋愛関係にある相手の好みに合わせるのが女性に偏って描かれがちなのかについても書きたいが、そこまで書くと別の記事ができてしまうので割愛する(いずれきっと書く)。とにかく、初めて聴いたときにここまで違和感を感じていた曲を今は「まあそういう考え方の人もいるよね」くらいの気持ちで聞き流すようになってしまったことに驚いたのだ。私の牙は鋭さを失っていた。私の目は睨み方を忘れていた。私は怒りを忘れていたのだ。

冒頭でも書いたが、人間が常に怒っている必要は全くない。むしろ多くの局面で「まあそういう考え方の人もいるよね」と思ってその場を乗り切るスキルの方が必要とされる。しかしそうやって受け流すことは本当にいいことなのだろうか。あるいは倫理的なのだろうか。「そういう考え」は私やあなたや見ず知らずの誰かに害を与えるものではないだろうか。私たちは私たち自身や他の人たちをを傷つける言動や思考を知らないうちに内面化していないだろうか。はっきり言っておくが私はこの記事の中で争うことを推奨するつもりはない。目の前にいる相手の価値観を尊重するのは対話に必要不可欠な要素である。しかしその相手の行動によって傷つく人がいるのなら、相手の価値観を尊重することは有害な行為の助長につながる。

だからこそ私は怒る必要がある。あなたがあなたに掛けられた無礼な言葉について、あなた自身が怒っていなくても私は反論するだろう。いつその無礼な言葉が同じように私に向けられるかわからないのと同じくらい、あなたに無礼な行いが許されているのは嫌だ。とにかく気に入らないものに対して吠えまくるのではなくて、抗議すべき時に抗議できるように常に周囲に(そして同様に自分自身に)目を配る必要がある。そういう考え方の人もいるよね、の後に、でも私はこのような理由でその発言には賛同できないと続けられるようになる必要がある。怒ることは決して無意味なことではないと私は信じている。

近況(一月)

友達に急にこんな長文のメッセージを送ったら相手が困るだろうし、かといってブログに書くには短いし、何日か(あるいは何週間か)考え続けたことも含まれるから日記には書きにくいようなものどもです。お暇つぶしにお読みください。

 

・一月一日は10時くらいに起きてお雑煮とおせちを食べた。元日の変に清々しさと夜更かしした朝のけだるさが入り混じった感じって変で好きだ。変な感じをもっと味わいたかったから、家族と初詣に行ったあと一人で散歩に行った。ほぼすべてのお店が閉まっているので繁華街に人が全然いなくて歩きやすかったし、アーケード街を通っているときなんかはここで叫んだらどうなるだろうと思ってわくわくした。私にはそういう「この場で絶対やってはいけないこと」をやってみたくなる癖がある(これは脳がやってはいけないことを想定するのをやってみたいという欲求だと錯覚しているとどこかで見た気もします。しかしよくわからん。なんでそんなことを錯覚する必要があるのだろうか)。確か去年の今頃は卒業式の練習の途中で急に上履きを壇上に投げ捨ててみたらどうなるかな(^^♪というようなことをずっと想像していた。投げ捨てなくてよかったし、投げ捨てればよかった。

 

今際の国のアリスの最終話を見た。というかほぼ最終話だけを見た感じ。どうしてそんなことになったのか。家族が私のいない間にどんどんネトフリで何話も観進めていって、まあそもそも一緒に観ようとしてたわけではないし本編をちゃんと追わなくても大体あらすじとかを教えてもらえれば楽しめるしいいか、と思っていた結果である。だがしかしドラマの最終話を見ている人間はドラマの展開に夢中なのであらすじを聞こうものなら「いまいいところだから!」と言われる。結果として5話ぐらいまでのあらすじと最終話の展開だけを知っている大変中途半端な状態になってしまった。おれっていつもこうなのか?でも自分が知っているストーリーの合間を埋めるようにドラマを観るのって楽しそうだから一回やってみたいかも。

 

・妹がディズニーシーに行くとのことで、絶対にチュロスを食え、と四度ほど念押ししたが食べてくれなかった。私はフォンダンショコラ味のチュロス(チョコレート色のチュロスに水色のお砂糖がまぶされている。お砂糖は絶対ソーダ味だとにらんでいる)が好きです。あとディズニーランドのイッツアスモールワールドが好きで、去年乗った時はなんかめちゃくちゃ泣いてしまった。世界中の子どもが幸せになってほしすぎるし、絶対…泣 それはそれとして妹はディズニー自体をかなり楽しめたようでよかった。

 

・朝ドラ(舞い上がれ)に出てくるヒロインの兄にかなり感情移入している。そうだよね、お金がないと生きていけないし命あっての物種だもんね、お金があればまた後々工場を経営できるかもだよね、これはあなたなりにできることをやってるだけだよね…と思っているがヒロインの兄はずっと周囲とすれ違い続けているっぽくてかわいそうである。でもそれはそれとして言い方ってもんがあると思うよ…とも思う。

 

     



・なんぼ食べても?????????????かわいい???????????よくわからない(なぜ関西弁なのか、なぜいくら食べてもかわいいのかなどの点)けどこういう謎のキャッチコピーが本当に好きだ。実際いちごってなんぼ食べても形も味もまあかわいいし………みんなも見つけたら教えてください。


・お友達と喫茶店に行ったら栞と紙魚子シリーズ(諸星大二郎)が置いてあってかなりテンションが上がった。最高の喫茶店である。このシリーズのホラーなのにとぼけたようなオチとかとか絵の感じとかがとても好きなのだが、ホラーコンテンツを家の中に置いておきたくないので買うにはいたっていない。あと単純に一般の書店で流通している本なのかよくわかっていない。あれってどこで売ってるんだろう。(おまけ 私の好きな漫画:日常、坂本ですが?伝染るんです。ブラックジャックなど ギャグマンガが多い)

 

Twitterのトプ画、もといアイコンを新調した。あとbio、もといプロフィール欄も変えた。髪も切った。イメチェンである。アイコンは夜寝る前にぼーっとヤギのあかちゃんの写真を投稿するインスタグラムのアカウント(baby goat picsみたいな名前だったと思う)を見ていてめっちゃかわいい!私もヤギのあかちゃんの絵描きたい!と思い、描いた。なかなかかわいく描けたなあと自負している。プロフィール欄には終点の町より愛を込めて、と記した。私が小学生の時まで住んでいた町には終点の駅があり、今でもたまにその町まで行く電車を見かけて懐かしく思う。前ここに書いた尊大な図書館がある町だ。私の人格の根幹はあの町で形成されたし、今も魂の一部はあの町とともにある気がしている。

 

・恋愛に回収されない形で人を好きになって、人に好かれて、そうして誰かの特別な人になりたいと思う。「誰かにとって一番特別な人」になろうと思ったらその誰かと恋愛をしなくてはいけないなんておかしいと思うからだ。私の特別な人は恋愛対象として好きな人でなくてもいいと思うし、恋愛感情は友情とか、あるいはそのほかの好きだと思う気持ちに劣るようなものだと思わないからだ。私は私のために、あるいはまた誰かのために、恋愛の文脈でなく好きな人を好きになりたい。

 

・私が佐々木と名乗っているのは粗品の本名に由来する説とササキトモコに由来する説と佐々木蔵之介に由来する説がある(敬称略。お三方とも大好きです)。というのは全部嘘で、佐々木というのは私が自分の育った家に所属しないための苗字だ。自分の育った家を出て、自分が与えられた名前を名乗らないように名乗っている、自分が獲得した苗字が佐々木だ。佐々木は親の苗字でもないし夫の苗字でもない。私のためだけの苗字であり、誰から受け継いだものでもなく、誰にも引き継がれない名前を私は愛している。

佐々木って誰?本名は?出身地は?調べてみました!

最近はずっと上手に自己紹介ができるようになりたいと思っている。私のことを上手に理解してほしいから。誤解してほしくないから。なるべく多くの人になるべくよく見られたいし可愛いとか賢そうとかかっこいいと思われたい。とにかく好かれたい。同じ理由でインスタグラムのストーリーにもたくさん文字を載せてしまう。かなり成長したなーと自分では思う。昔の私はそういう自意識がなかったので誤解されても別にいいし好きなように私のことをてめえらの枠組みで捉えとけよと思っていた。この無鉄砲さと無邪気さが最近少しだけ恋しい。こんな自意識なんて気持ち悪いだけで無駄だなと一瞬思うけどこれはあんまり思わない方がいいやつだなーと思って思考を軌道修正する。

 


最近自分を含む人間の肌に触れるのが苦手じゃなくなった。幼少期の私は(多分)ぬくもりが苦手で、親が手を繋ごうとしても振りほどいていたしぬいぐるみもあまり好きではなかった(冷たさがないから)のだが、最近はそれらの良さが少しずつわかってきた。友達ともハグを抵抗なくできるようになった(以前より自分の肌の感触の気持ち悪さが気にならなくなった!友達はあたたかい!)。これが人肌のぬくもりか、という感じがする。どこがいいのかはおそらくきちんとわかっていないが。暖かくなりたいならこたつに入る方がいいと思うし。

 


愛は全てを知ろうとする意志であり、全てを知りえない以上愛は全て狂気だと思っていた。というか頭の一部では今もそう思っている。しかし最近はそうでもないのかもと思うことが増えた。愛しているからこそ見たくないもの、見られたくないもの、見せたくないもの、そこに加えて決して侵されたくない場所があって、そのことは本当に尊いと思う。その選択はその人が今まで歩んできた人生の中で形作られたその人だけのものだからだ。親しき仲にも礼儀ありという言葉があるように、どんなに仲良くなっても踏み入れられたくない秘密の花園がある、そのことをいつも私は忘れて花壇の中にずかずかと足を踏み入れてしまうから本当に愚かだと思う。その癖自分は他人に足を踏み入れられたくない場所をたくさん持っているから救いようがない(脳内お花畑!)。

 


おそらく私は「親密な関係」に強い憧れがある。具体的にどんな関係かはわかっていないくせにだ。漠然とドラマとか小説とか映画で見るような二人を夢見ている。人ともっと仲良くしたい、私が思い描く一番素敵な関係に至りたい、存在しえない完璧な関係を模倣したいと思うあまり無茶苦茶なことばかりしてしまう。人肌が嫌いなくせに、人間と喋るのが得意じゃないくせに、人間関係が下手なくせに!実力が伴ってないのに結果だけ高望みしている、本当に本当に愚かだ。

 


自己紹介を書こうと思ったのに余計なことばかり書いてしまった。最後に本当の自己紹介だけ貼って終わります それではみなさん生存を第一に暮らしましょう⚡️

 

https://twitter.com/shashaquit/status/1615314293976891392?s=46&t=Gw1lzyEOZ24qNV-fUGuLhA

身体性についてのいくつかの覚え書き

別のところにも書いたが、ライブイベントに行く友人たちが好きなキャラクター/アイドル/芸人/俳優に”会いに行く”と言うのがかなり好きだ。私はどちらかというと好きなものを”見に行く”気持ちでイベントに行ったり映画館や美術館に行っているのだが、”見に行く”に対して”会いに行く”の方が見る/見られるの関係が対等というか、そこに会いに行く相手の肉体が存在していることをきちんと認めている感じがする。

 

ダンスの経験はほとんどないがアイドルが踊っている動画を見るのが好きだ。ダンスの上手い下手はあまりよくわからないが、たまにこんな風に踊ってみたいと思うようなダンスをする人がいる。どこが好きなのかとか他の人とどこが違うのかは全く説明できないがとにかくきれいなのだ。細かい手の動きとか足さばきとかそういう動作を見て、画面の向こう側にこの動きが、この動きを生み出した肉体があることに惚れ惚れとする。

 

お笑いが好きな友人に劇場まで連れて行ってもらって一緒に芸人のライブを見たことがある。私は漫才やコントが好きだがそれまで劇場に行ったことはなくて、どちらかというとテレビでずっと観ていた側の人間だった。し、その時はあまり生で舞台に立つ人を見ることに意味を見出していなかった気がする。これ配信でも見れるのか、今度は家で配信で観てみようかな~とかそんなことを考えながら観にいった。生で観れてよかったと今は心から思う。生身の人間からあふれてくるあの匂い立つような数多の情報に触れるとちょっとくらくらする。ネタ中喋ってないときはこの人はこういう顔をするのか!とかここで息継ぎをするのか!とかそういうことがよく分かった。劇場に足しげく通う人が一定数いる理由が身に染みて分かった。

 

ここまで舞台に立つ人間の身体性というか生身の肉体が持つ凄みについて書いてきたが、日常の中にある身体に思いを馳せることはなかなかない気がする。多分日常の中の身体をなるべくないものとして扱いたいのだ。舞台上の華やかな肉体と違って、私の肉体には無駄なものが多い。定期的に気分が落ち込むのも、いつ痛み出すのかわからない親知らずも全部必要のないことだ。肉体が管理すべきもので、愚鈍なもののように感じられることが度々ある。いつも情けないくらい身体に振り回されている気がする。本能をなんとか理性で抑え込もうとして、負けて、この間はまたコンビニのハッシュドポテトを食べた。油が多すぎて身体に良くないはずなのにあの油の味を定期的に欲してしまう。愚か!

 

肉体がそこに存在することへの素朴な感謝(穂村弘が書いてた気がするけど忘れた)が憎いのかもしれない。ありのままであることがそんなにありがたいかよ、生まれ持ったものだけで勝負してるのがそんなに偉いのかよと思う。バーチャルな身体を得てみたい。私の私による私のための身体。それはそれで張り合いがないのだろうか。制御しやすすぎるのだろうか。完璧に自分の身体を乗りこなしたいのにままならないのが面白いと思ってしまってちょっと悔しい。

 

会って話したいことがあると言われると嬉しくなる。実際に会って、私の視線の先を見つめて、笑い声を聞きながら、私の身体の存在感を一身に受けながら誰かが私に何かを伝えようとしているのはとても幸福なことだ。しかし会ってしか話せないことがあるという事実に軽く絶望もする。何百何千通もの手紙を書けども表しえないことが対面ではすぐ伝わってしまう。という話を人にしたところ文字でしか伝わらないものもあるから、と宥められてしまった。それは間違いなくそうだと思う。しかし私は全てを文字の上に並べたいのだ。自分でも無茶なことを言っているのはわかっている。文章でのコミュニケーションに身体性が関係していないわけではないことも、身体性のみが持つ魅力があることもわかっている。それでも身体を超えたところでコミュニケーションを取りたい。文字だけで私の見たもの、感じたこと、考えたこと、思ったこと、触れた空気や息遣いまで全てを伝えるのが今年(に限らず文章を書く上で)の目標です。これをもちまして新年のご挨拶に代えさせていただきます。本年もどうぞよろしくお願いします🐰

 

 

おれの肉体はおれのもの❣️

サブタイトル:女の子って本当に楽しい!と思ったことない

 

私が幼稚園に通っていた頃に転んで尻もちをつくのを見ていた大人に骨盤を傷つけると健康な赤ちゃんが産めないよと言われた。骨盤がお尻のあたりにある骨であることをその時に知った。あのときあの人は誰の心配をしていたのだろうか。いずれ子どもを産むであろう私の心配をしていたのだろうか。それとも産まれてくるはずの赤ちゃんの心配をしていたのだろうか。

 

昔生物の授業中(多分ヒトの誕生のあたりの話)に、先生が女子生徒に向かって「君たちは赤ちゃんを産むでしょうから」と言っていた。 もうこれ以上この授業聞きたくないなー、と思ってそれ以降その授業は真面目に受けないようにしていた。私(たち)のことを何も知らない人に私(たち)の将来を確定した形で語られるのは部屋の中に急に土足で上がられるようなものだと思った。

 

授業中に生理痛がひどすぎるのと貧血で意識が半分ないような状態で保健室に行った。ましになったから教室に戻ろうとしたら、保健室の先生に恥ずかしいだろうから担任の先生には貧血で倒れたって伝えました、と言われた。恥ずかしいだろうから?どうしてこの人も私の気持ちを勝手に推し測るのか。私は自分が倒れた原因を担任の先生に伝えておいた方が心配されないだろうなと思っていたが、結局言うタイミングを見失ってそのまま卒業した。

 

大学に入ってから社会学の授業を取った。社会学についての本を一人一冊読んで内容のまとめとそれに対する感想を発表する課題が出た。同じ班の学生が少子化を解消して経済を活発にするには子どもを育てやすい環境を作って、女性が子どもをたくさん産めるようにすべきだというようなことを自分が読んだ本のまとめとして発表した。そのあと発表を聞いた人がコメントを言う時間があったので、私は国のために子どもを産むわけじゃないからと歯切れ悪く言った(班の中で女子学生は私だけだった)。もし時間があったら、私は至らない人間で子どもを育てる自信がないのでいくら環境が整っていても産みたいと今は思いませんし、そもそも全ての女性が子どもを産めるわけでも産みたいわけでもありません、恋愛対象が男性でない女性もいます、乱暴なことを言わないでくださいと言いたかった。

 

別の授業で先生が生理用ナプキンが買えない人のために自治体が配布したりトイレに置いておいたりする取り組みがあるという話をしたあと隣の席からあいつ最強じゃん、と言っている声が聞こえてきて、のんきでいいなと思った。ナプキンが買えなくて困ったことも、急に生理になったことも、生理前に気分が落ち込んだことも、生理前後にはああしろこうしろとか誰が投稿したのか根拠があるのかわからないインスタのまとめ投稿に指導されたこともないからネタを喋ってる人として見られるし茶化せるんだろうなと思った。ちょっとうらやましかった。

 

また別の授業で先生が男性が育休をとりにくいこと、女性にとって妊娠出産はキャリアの損失の可能性があることを話したあとにグループディスカッションで自分の将来設計を話し合うことになった。後ろの席に座っていた学生が子供は三人欲しいと言っていた。いやそういう授業なのは間違いないんだけどさ、話聞いてたのか、と思ったが聞いたうえでそう言っているらしかった。三人子どもを産みたいと思ってる奥さんを見つけられるといいね、と言おうとしたら他の人の番になっていたので黙った。

 

振袖を着たくない。振袖のカタログを見ているとかわいいから全部着てみたい!と思う。でもなんでこんなに着付けってめんどくさそうなんだろう。スーツがいい。という話を大人にしたらスーツ着たら目立たないよ、せっかく思い出に残るし一回しか着れないんだから振袖着なよと言われた。別の人には女の子は華やかな振袖を着られるからいいね!と言われた。男の子はスーツと袴両方着られるからいいよね!とは言わなかった。成人式が今まで私を育ててくださった皆様に成長をお見せしてそのことに感謝する場であることはわかる。なぜそこで華やかな装いをしないといけないのかがわからない。成長することは華やかな装いができるようになることなのだろうか。友達に会いたいから成人式は行きたい。そろそろ振袖の予約をする時期だから早く決めないといけない。私も振袖を心の底から望んで着たい。

 

私が怒っているのはここに書いた中に出てくる個人ではない。特定の性別を憎んでいるわけでもない。私が恨んでいるのは世間に漂っている空気だ。本を読んだりニュースを見たりするたびに私の価値観が変化して、そのたびに自分や他人の過去の言動が許せないものになる。なんとなくこうしないといけないとかこうしたほうがいいという意味のない社会通念を苦しく思うようになる。その中でも特に、私の、そして女性の体が本人のものでないかのように他者によって語られることに耐えられなくなってきた。妊娠や出産の話をするときに、その場にいる私がいつかその当事者になることをほぼ断定的に誰かが語る。私の体は私のものだ。お前には決して語らせない。お前には決して決めさせない。下の世代がこんな思いをしないようにこんな風潮あたしの代で終わらせるぞ!

不確かな持論を持つ思想家の道を辿れ。

自らの考えを論争の脅威にさらけ出せ。率直に意見を述べ、変わり者のレッテルよりも、従順という汚名を恐れよ。そして、自分にとって重要に見える問題のために、立ち上がり、どんな困難にも立ち向かえ。

 

タイトルからここまで、かっこよくて好きな言葉   MBTI診断っていう性格診断のサイトのENTPのページの一番最初にある  わたしはこのテストを受けると大体ENTPINTPという結果が出る

 

中学生か高校生のときに作文の課題が出て、それが張り出されたときにみんな敬体で書いていて常態で書いているのはわたしだけ  ということがあった

ブログを書き始めてからも同じで、自分はがっつり句読点打ちまくりの文章を書いていたがなんか句読点をつけずに書いている人の方が多いように思った  なのでブログぽい文章を書くぞ!と思いこれを書いている

 

性格診断の類が好きなのは、自分のことをよく観察してよく理解してくれる誰かがいるみたいに感じられるからだと思う  生まれた時からず〜〜〜っとわたしのことをよく見てて、わたしのことをよ〜〜〜〜く知っている人がいたら嬉しいだろうな   わたしにとって知るって愛だから

 

I love  youをわたしなら月が綺麗ですねじゃなくてあなたの全てを知りたいと訳したい  やっぱり恥ずかしいからいいや)

 

でもそんな人はいないので、わたしはちょっとさみしい  わたしの全てを理解されたい!今何を思ってて何を考えてるかとか当てられたい!

 

でもでもわたしの全てを理解できるとか甘いこと言ってんなよ〜とは思う  たかだかわたしと同じ人間に理解されて、理解できてたまるかよ  そんな薄っぺらい人間であってたまるかよ、いや、そうかもしれないんだけどさあ……

 

理解されたいけどされたくないよーーーーーーー!!!!!!!!!!うわあーーーーーーーーーーーー

 

それなら誤解されている方がいっそマシかも、悪い方向に誤解されるのは嫌だけどみんなの中にそれぞれわたし像があるのは面白いからね

 

不確かな道を辿るよりほかに方法がない

表現について 改

(といっても表現を語れるほど私は大したことを今までしていないのだが、書きたくなったので書く)

 

全ての情報がこの世にただ1人の私の視点から取り込まれる以上、私の目に映るものは唯一無二であるはずで、そうである以上「私はこう思った/考えた」のアウトプットは全て自分の視点というフィルターがどんなものかを物語るものであるはずだ。私にとっての表現は全て間接的な自分語りだと思う。作品や日常生活で発する言葉からは、表現する側の人の意図だけでなく人格や価値観が滲み出ている。話す内容だけでなく、どのようなタイミングでどのような相手にどのような語り口で、といったチョイスにもその人の意図が大きく現れる。と思う(この手の話題に慣れていないので自分が書いている内容に自信がなく、思う  を多用しています)。

 

しかしだからといってその人の言葉からその人の全てを読み取ることはできないだろう。例えば考え方のくせが気づきにくいものであるように、人格や考え方、価値観の全ては言語化できない。ならば考えていることを言葉にしても意味がないのかと言われると、その理由こそ言語化できないが、決してそうではないと私は思う。というよりもそう思いたい。どこまでいっても分かりあえない人間同士がそれでも分かりあおうとするその努力を無駄だとは思わないし、言いたくない。表面的であれなんであれ相互理解を深めようとする姿勢は人間が人間であるために欠かせないと思う。

 

言語化できないぼんやりとした、割り切れないものこそが人間を人間らしくしているのだろうが、だからと言ってそのぼんやりしたものにもたれかかるなとも思う。私には他人の考えていることが100パーセント分かるわけではない。まず私が何を考えて何を感じているのか、私でさえも完璧には分からない。他人も私について同じように思っているはずだ。だから出来るだけ多くのことを言葉にして伝えるべきだと思う。

 

だから私は察してという言葉が嫌いだ。察してと言うのは「私が言語化しなかった部分を汲み取って行動してね」と言っているのと同じだ。私(そしてこれを読むあなた)が他人の気持ちを汲み取るのは私の自由だが、私(そしてこれを読むあなた)が何をどう読み取りどう思うかを人に指示されるいわれはどこにもない。

 

(ただし小説やドラマなど創作物の場合は、その文脈の中にこの描写はこういう風に読みとってね!という最低限の指示のようなものが暗黙の了解としてあった場合、そこを無視した読解はもちろん横暴だと思う。もちろん解釈が一つではないのが物語の良い点だが、だからといって好き勝手読むと意味がないよねという話です)

 

それから自分の言葉を用いずに簡単な言葉で済ませたり、自分の気持ちをどこかで聞いた歌詞のようなもので済ませている人を見るとどうしても甘えるな!私がそれなりに苦労してやってきたことを、苦労しなくてもできそうな人たちがどうしてやらないんだ!みんな器用なんだからそのくらい出来るだろ!と思ってしまう。もちろんこれは「私が頑張ってるんだからあなたも頑張りなさいよ!」という意味のない私の苛立ちなので全然気にしなくていい。しかし自分を語るのに使っていい言葉は自分の言葉だけで、本来好きなものでも嫌いなものでも自分は語れない。他人の言葉に自分を重ねることはできても、その言葉で自分を表現しようとするのは他人の褌で相撲を取っているのと同じことだ。自分は自分で語るしかない。と思う。