怒りを忘れるな

最近何にも怒っていない。以前は万物に怒り、わめき、睨みつけていたにもかかわらずだ。よいことである。人間は常に機嫌よくあるべきだから。

導入としてとりあえずここまで書いて、そんなわけないだろうと思った。機嫌よくあるべきなわけがない。たとえ私以外の78億8799万9999人が楽しそうにしていても私は常に怒っているはずなのだ。それなのに私は今日も昨日ものほほんと楽しく食い、風呂に入り、寝ていた。私は今そのことに激怒している。だからこうやってノートパソコンのキーをバチバチと叩いているのである。ではなぜ私は怒っているべきなのか。

椎名林檎の流行という曲がある。久しぶりに聴いて、ああいい曲だなあと思い、そのことに気づき驚いた。この曲の歌詞について大まかに述べると、男性の好み(=流行)に乗って(あげて)男性好みの女性を演じよう、という内容である(と私は解釈している)。私は初めてこの曲を聴いたとき、はっきり言って受け付けないと感じた。どれだけ誰かのことを好きになっても、その人の好みに合わせて自分が変化したいとは全く思えなかったからだ。加えて、「広い心で夫の言うことを聞いてあげるのが賢い妻」的な言説を思い出したというのもある。どんな状況であれ、一方が(本当は私の方が立場が強いから)相手の要求を呑んで”あげ”ようと考える関係性は、少なくとも私が志向するものではない。誰かが私より強い立場にある(と考えている)から私の要望を通すのなんてクソくらえと言ったところである。たとえ大富豪があなたより資産がありますからと言って私に別荘を買い与えようとしても、私はその大富豪の顔につばを吐きつつしんで辞退するだろう。

話がそれてしまった。なぜ恋愛関係にある相手の好みに合わせるのが女性に偏って描かれがちなのかについても書きたいが、そこまで書くと別の記事ができてしまうので割愛する(いずれきっと書く)。とにかく、初めて聴いたときにここまで違和感を感じていた曲を今は「まあそういう考え方の人もいるよね」くらいの気持ちで聞き流すようになってしまったことに驚いたのだ。私の牙は鋭さを失っていた。私の目は睨み方を忘れていた。私は怒りを忘れていたのだ。

冒頭でも書いたが、人間が常に怒っている必要は全くない。むしろ多くの局面で「まあそういう考え方の人もいるよね」と思ってその場を乗り切るスキルの方が必要とされる。しかしそうやって受け流すことは本当にいいことなのだろうか。あるいは倫理的なのだろうか。「そういう考え」は私やあなたや見ず知らずの誰かに害を与えるものではないだろうか。私たちは私たち自身や他の人たちをを傷つける言動や思考を知らないうちに内面化していないだろうか。はっきり言っておくが私はこの記事の中で争うことを推奨するつもりはない。目の前にいる相手の価値観を尊重するのは対話に必要不可欠な要素である。しかしその相手の行動によって傷つく人がいるのなら、相手の価値観を尊重することは有害な行為の助長につながる。

だからこそ私は怒る必要がある。あなたがあなたに掛けられた無礼な言葉について、あなた自身が怒っていなくても私は反論するだろう。いつその無礼な言葉が同じように私に向けられるかわからないのと同じくらい、あなたに無礼な行いが許されているのは嫌だ。とにかく気に入らないものに対して吠えまくるのではなくて、抗議すべき時に抗議できるように常に周囲に(そして同様に自分自身に)目を配る必要がある。そういう考え方の人もいるよね、の後に、でも私はこのような理由でその発言には賛同できないと続けられるようになる必要がある。怒ることは決して無意味なことではないと私は信じている。