表現について 改

(といっても表現を語れるほど私は大したことを今までしていないのだが、書きたくなったので書く)

 

全ての情報がこの世にただ1人の私の視点から取り込まれる以上、私の目に映るものは唯一無二であるはずで、そうである以上「私はこう思った/考えた」のアウトプットは全て自分の視点というフィルターがどんなものかを物語るものであるはずだ。私にとっての表現は全て間接的な自分語りだと思う。作品や日常生活で発する言葉からは、表現する側の人の意図だけでなく人格や価値観が滲み出ている。話す内容だけでなく、どのようなタイミングでどのような相手にどのような語り口で、といったチョイスにもその人の意図が大きく現れる。と思う(この手の話題に慣れていないので自分が書いている内容に自信がなく、思う  を多用しています)。

 

しかしだからといってその人の言葉からその人の全てを読み取ることはできないだろう。例えば考え方のくせが気づきにくいものであるように、人格や考え方、価値観の全ては言語化できない。ならば考えていることを言葉にしても意味がないのかと言われると、その理由こそ言語化できないが、決してそうではないと私は思う。というよりもそう思いたい。どこまでいっても分かりあえない人間同士がそれでも分かりあおうとするその努力を無駄だとは思わないし、言いたくない。表面的であれなんであれ相互理解を深めようとする姿勢は人間が人間であるために欠かせないと思う。

 

言語化できないぼんやりとした、割り切れないものこそが人間を人間らしくしているのだろうが、だからと言ってそのぼんやりしたものにもたれかかるなとも思う。私には他人の考えていることが100パーセント分かるわけではない。まず私が何を考えて何を感じているのか、私でさえも完璧には分からない。他人も私について同じように思っているはずだ。だから出来るだけ多くのことを言葉にして伝えるべきだと思う。

 

だから私は察してという言葉が嫌いだ。察してと言うのは「私が言語化しなかった部分を汲み取って行動してね」と言っているのと同じだ。私(そしてこれを読むあなた)が他人の気持ちを汲み取るのは私の自由だが、私(そしてこれを読むあなた)が何をどう読み取りどう思うかを人に指示されるいわれはどこにもない。

 

(ただし小説やドラマなど創作物の場合は、その文脈の中にこの描写はこういう風に読みとってね!という最低限の指示のようなものが暗黙の了解としてあった場合、そこを無視した読解はもちろん横暴だと思う。もちろん解釈が一つではないのが物語の良い点だが、だからといって好き勝手読むと意味がないよねという話です)

 

それから自分の言葉を用いずに簡単な言葉で済ませたり、自分の気持ちをどこかで聞いた歌詞のようなもので済ませている人を見るとどうしても甘えるな!私がそれなりに苦労してやってきたことを、苦労しなくてもできそうな人たちがどうしてやらないんだ!みんな器用なんだからそのくらい出来るだろ!と思ってしまう。もちろんこれは「私が頑張ってるんだからあなたも頑張りなさいよ!」という意味のない私の苛立ちなので全然気にしなくていい。しかし自分を語るのに使っていい言葉は自分の言葉だけで、本来好きなものでも嫌いなものでも自分は語れない。他人の言葉に自分を重ねることはできても、その言葉で自分を表現しようとするのは他人の褌で相撲を取っているのと同じことだ。自分は自分で語るしかない。と思う。