身体性についてのいくつかの覚え書き

別のところにも書いたが、ライブイベントに行く友人たちが好きなキャラクター/アイドル/芸人/俳優に”会いに行く”と言うのがかなり好きだ。私はどちらかというと好きなものを”見に行く”気持ちでイベントに行ったり映画館や美術館に行っているのだが、”見に行く”に対して”会いに行く”の方が見る/見られるの関係が対等というか、そこに会いに行く相手の肉体が存在していることをきちんと認めている感じがする。

 

ダンスの経験はほとんどないがアイドルが踊っている動画を見るのが好きだ。ダンスの上手い下手はあまりよくわからないが、たまにこんな風に踊ってみたいと思うようなダンスをする人がいる。どこが好きなのかとか他の人とどこが違うのかは全く説明できないがとにかくきれいなのだ。細かい手の動きとか足さばきとかそういう動作を見て、画面の向こう側にこの動きが、この動きを生み出した肉体があることに惚れ惚れとする。

 

お笑いが好きな友人に劇場まで連れて行ってもらって一緒に芸人のライブを見たことがある。私は漫才やコントが好きだがそれまで劇場に行ったことはなくて、どちらかというとテレビでずっと観ていた側の人間だった。し、その時はあまり生で舞台に立つ人を見ることに意味を見出していなかった気がする。これ配信でも見れるのか、今度は家で配信で観てみようかな~とかそんなことを考えながら観にいった。生で観れてよかったと今は心から思う。生身の人間からあふれてくるあの匂い立つような数多の情報に触れるとちょっとくらくらする。ネタ中喋ってないときはこの人はこういう顔をするのか!とかここで息継ぎをするのか!とかそういうことがよく分かった。劇場に足しげく通う人が一定数いる理由が身に染みて分かった。

 

ここまで舞台に立つ人間の身体性というか生身の肉体が持つ凄みについて書いてきたが、日常の中にある身体に思いを馳せることはなかなかない気がする。多分日常の中の身体をなるべくないものとして扱いたいのだ。舞台上の華やかな肉体と違って、私の肉体には無駄なものが多い。定期的に気分が落ち込むのも、いつ痛み出すのかわからない親知らずも全部必要のないことだ。肉体が管理すべきもので、愚鈍なもののように感じられることが度々ある。いつも情けないくらい身体に振り回されている気がする。本能をなんとか理性で抑え込もうとして、負けて、この間はまたコンビニのハッシュドポテトを食べた。油が多すぎて身体に良くないはずなのにあの油の味を定期的に欲してしまう。愚か!

 

肉体がそこに存在することへの素朴な感謝(穂村弘が書いてた気がするけど忘れた)が憎いのかもしれない。ありのままであることがそんなにありがたいかよ、生まれ持ったものだけで勝負してるのがそんなに偉いのかよと思う。バーチャルな身体を得てみたい。私の私による私のための身体。それはそれで張り合いがないのだろうか。制御しやすすぎるのだろうか。完璧に自分の身体を乗りこなしたいのにままならないのが面白いと思ってしまってちょっと悔しい。

 

会って話したいことがあると言われると嬉しくなる。実際に会って、私の視線の先を見つめて、笑い声を聞きながら、私の身体の存在感を一身に受けながら誰かが私に何かを伝えようとしているのはとても幸福なことだ。しかし会ってしか話せないことがあるという事実に軽く絶望もする。何百何千通もの手紙を書けども表しえないことが対面ではすぐ伝わってしまう。という話を人にしたところ文字でしか伝わらないものもあるから、と宥められてしまった。それは間違いなくそうだと思う。しかし私は全てを文字の上に並べたいのだ。自分でも無茶なことを言っているのはわかっている。文章でのコミュニケーションに身体性が関係していないわけではないことも、身体性のみが持つ魅力があることもわかっている。それでも身体を超えたところでコミュニケーションを取りたい。文字だけで私の見たもの、感じたこと、考えたこと、思ったこと、触れた空気や息遣いまで全てを伝えるのが今年(に限らず文章を書く上で)の目標です。これをもちまして新年のご挨拶に代えさせていただきます。本年もどうぞよろしくお願いします🐰