19歳

これを書いている今は95日の夜なので、目覚めたら私は19歳になっていることになる。19年生きたのかと思うと案外長かったような短かったような気がするし、仮に100年生きるとしたら大体5分の1生きたことになると考えるとまたよくわからなくなる。薄っぺらい人生だった気もするし濃い人生だと言われればそれはそれで納得できる。もう19歳でまだ19な感じだ。何かを成したわけでも大きな挫折を経験したわけでもないが、とにかく私は19年生きた。

しかし、小学生の時に思い描いていた19歳と比べると今の自分は随分幼い。免許も持っていないし一人暮らしの経験もない。先述の通り何かを成したわけでもない。さらに嫌になるのは、自分が何をしたいのか(何をすべきなのか)全くわかっていないことだ。考えることすらも億劫でできない。この間は昔お世話になった先生に、若いんだから若いうちにできることをしておいたほうがいい、という旨のことを言われた。この言葉を思い出すとたまに血管が縮まったような感覚に襲われる。同世代や私以下の年代の人が活躍しているのを見ると、その人がスポーツ選手であろうとアイドルであろうとこの感覚がもっと強まる。私は貴重な若いうちを何もせずに、ソリティアのレベル上げとか麻雀のルールを理解することに費やして何もできず大人になって、中身のない大人になるのではないか?はたまた大人になれないのではないか?この先生きていけるのか?とかそんな不安が頭の中で踊り出す。本当に嫌だ。こんなこと考えたくない。(余談だが私は最近ポーカーと花札に加えて麻雀のルールをマスターした。時代が時代なら博徒になれると思う)

と同時に、早く若いうちを終わらせたいとも思う。けしてけして早く死にたいわけではないが、私は早く私の人生の終わりが見たい。それは面白い小説を読んでいる時の感覚に似ている。面白いからずっと終わってほしくなくて、ずっと意識をこの小説の中に置いておきたいけれど、早く絶対に面白いはずの終章を読んで早く次の面白い小説を読みたいと思うあの感覚だ。だらだら若いうちを続けている場合ではなくて、早く20代も30代も飛び越えて終わりまで辿りつきたい。

じゃあ結局お前は歳を重ねたいのか重ねたくないのかと聞かれると本当によくわからない!ただ、行けるところまで、できるだけここから遠く離れた場所まで全速力で走って行きたい気持ちだ。今後一年間もみんなよろしくね。たくさん成長できるように頑張ります⚡️

アウトローになりたかった頃

小学生の時に読んで以来、ブラックジャック(漫画のほう)が好きだ。知らない人のためにざっくり説明すると、孤高の天才外科医(わけあって無免許)がいろんな人を手術して大金をふんだくったりふんだくらなかったりする話で、この天才外科医がブラックジャックである。ブラックジャックは天才外科医なので、ときには野犬に囲まれながら自分で自分の手術をしたりする。こういう人になりたい、と思った。誰にも頼らずに私はどこまでも行きたかった。

その当時(というか結構最近まで)、私は自分が親に養われていることがうっとうしくて仕方なかった。人の庇護下にあって全てが自分の思い通りにいかないのが、それになにより自分が親に頼りきって生きているのが嫌だった。自立して早く家を出たいとずっと思っていた。

(ちょっと脇道に逸れます:前に読んだ本の受け売りだが、生まれた時から身の回りのこと全てを自分でやって、自分でお金を稼げる子どもなんているはずがない。だから親に子どもを養う義務はあっても子どもがそれを必要以上に重く受け止めるというか、過剰に育てていただきありがとうございます!という風に思うのはちょっと違うよなーと思う。だから全ての親は、お願いだから子どもに誰のおかげで飯が食えてるんだ!なんて言わないでほしい。私は親になったことがないのでこの辺の考え方はまた変わるかもだが…)

とにかくそういう風に、自己完結した生き方が正しくてかっこいい生き方だと長いこと思っていたわけだが、最近になって(まじのまじで最近、ここ一ヶ月くらい)それは違うのではないかと思うようになった。先述の通り、本を読んで生まれたときから全部を自分の手で成し遂げるのは無理だと考えるようになったのもあるが、人に何かをお願いすることは貸しではないと考えるようになったのもあるかもしれない。前までは人に何かを頼むのにすごーく罪悪感を感じていたが、最近は私が思っていたよりみんながお互いにお互いを知って、人を頼るのも戦略のひとつだよね、と思えるようになった(具体的にいうと前までは何かわからないことがあると、このくらいのことみんな自分で調べて知ってるのに!お手数をかけさせてしまって申し訳ない!情けない!と思いながら人に聞いていたのが、私の知らないことを知ってる人がいて聞けた(^.^)✌️ラッキー(^.^)✌️と思えるようになった)。

そういえばブラックジャックにも助手(兼奥さん)がいるし(これも読んだことのない人のために書いておくとピノコちゃんといいます。かわいい)、昔の恩師とか友達とかが出てくる回も結構あったなーと書きながら思った。ブラックジャックはどこまでも孤独だが、人と関わること、人を救うことは決して諦めていなかったんだと思う。結局いつも書いていることの変奏になってしまった。じゃあ逆になんで今まで人を頼る方向で生きてなかったのかが不思議だが…

人は経済的にも精神的にも一人で生きていけるわけではないですよね という話でした。暑いのでみなさんお身体にお気をつけください⚡️

ブログを書くハードル

 なんか最近ブログを書けない、というか、書きたいことがないようなあるような、まとまっているようないないような、はたしてこれをブログに書いたところで喜んでくれる人がいるのか、傷つく人がいないだろうか、というようなことをつらつらと考えている。要するにブログを書くハードルが上がっている。というよりは自分で勝手に上げてしまっている。

 理由はいくつかあると思うけど、一つは誰に向けて書いているのかがつかめなくなってきたからだと思う。今までは、と言っても二か月ぐらいだが、漠然とお世間様に申し上げたいこととか、定期的に読んでくれている友達に読んでほしいこととか、あるいは昔の自分に言いたいこととかがあって書いていた。しかし最近は、書きたいことが一つもない。でも何かを書きたい気はするし、書かないといけない気もする。このようなやむにやまれぬ焦燥感で何かを書いて、それはそれで気に入っているんだけど、でも自分の納得できる出来にはならなくて、また焦ったりしていた。まあこれに関してはこの先も書きたいものがあるときに書く、ぐらいのスタンスでブログを続けていくつもりなのであんまり気にしなくていっか!と思う。

 もう一つの理由として、私は自分の書くものに対して終着点というか、結論を用意しようとしすぎていたことが挙げられる(あれ?英検のwritingみたい)。今まで私は結論がはっきりしないブログばっかり書いてきたな、という実感があって、だからこそ帰結が明確なものを書かないと!と思っていた。でもここ数日は、帰結のはっきりしない、どこからきてどこに行くのかもわからない、ゆるーく流れていく雲のような文章を書きたいなあ~と思っている。これはなぜかというと、雪舟えまさんという人のパラダイスィー8という短編集を読んだからだ。この短編集に出てくる人たちは、みんなそれぞれに悩みや問題を抱えていたりいなかったりして、問題がある/ない、その問題が解決している/していない、にかかわらず、生活したり人と交流したりしている。すべての話にはっきりしたオチがあるわけでもなくて、でもこの後登場人物の幸せな生活が続いていくことを予期させるような祈りたくなるような、そんな世界観がとても素敵だと思った。気になった人はぜひ読んでみてください。

 とはいえもっともっといろんなことを書いてみんなにこのブログを読んでほしい気持ちはあるので、どんなに細々とでも続けていきたいな。もう少し夏になったら日記みたいな感じでその日に起こったことを書き記したりしようかな🎐

どうにかして書くことをあきらめずにいたいものです じゃあね~

クリスマスソングはうるさい

 絶対に今書く内容ではないのだが、クリスマスが好きだ。十二月にクリスマス用に飾り付けられたスーパーの店内を歩いていたりすると、暖房と電飾の光があいまって頭がぼーっとしてくるあの感じが結構好き。みんなが楽しそうなのもいいし、テレビ番組とかが特に意味もなくクリスマス仕様になるのもいい。

 しかし私はクリスマスソングが嫌いだ。本当に嫌いだ。don’t like ではなくhateと表現しても差し支えないくらいだ。どうしてあんなにしゃんしゃん鈴の音が入ってくるのだろう。ぼーっとした頭であの音を聞くと頭が痛くなる。普段私はクラシックもテクノもロックもポップスも、メジャーな音楽のジャンルは一通り聴いていて、その中で好き嫌いは一応ないつもりだが、どうしても鈴の音が入ってくるクリスマスソングはだめだ。想像していただければお分かりになるだろうが、家族や友人と一緒に十二月のショッピングモールなんかに買い物に行って、みんながこの曲知ってる、聴いたことある、とか言っているなかでひとりだけ白い顔でとぼとぼと歩くのは本当に情けない。

 となると必然的に私の聴けるクリスマスソングは限られてくる。聖歌だ。私が聴けるのは荘厳な合唱曲だけなのだ。でもそんなのは嫌だ。私もみんなと一緒にクリスマスソングを聴きたい。クリスマスパーティーに参加したい。でも自分がどうしても許容できないものを許容することはできない(我ながら頑固だなあと思うのですが…)。

 このようなわけでどこかにしゃんしゃんしてないクリスマスソングはないかしら、と思っていたのだが、ついに見つけた。StraykidsのChristmas EveLだ。

 そもそもStraykidsについてはなんかスキズって呼ばれてるいかつめのKPOPのアイドルがいて、なんかThunderousという曲を歌っている、ぐらいのぼんやりした知識ぐらいしかなかった。で、ある日突然なんかスキズの曲をもっと聴いてみたいかも!と思い(この時点でMy PaceとかMIROHとかGod's Menuとかは聴いていた)、とりあえずYoutubeで検索した結果、Christmas EveLが出てきた。聴いた。すごくかっこよかった。アイドルの曲なのに恋人と過ごすホワイトクリスマス…♡みたいな情景を題材にしていない。なんか字幕にはずっと咳出るとか寒いとか書いてある。すごい。全然しゃんしゃんしていない!そういうわけで私は一気にChristmas EveLが好きになった。

 と同時に、私が望む人とのつながり方はこういうことだったのかもしれないと思った。私は昔から集団行動が好きではなくて(単に向いてないだけかもしれないが)、人とおそろいのものを持ったりするのもなんだか好きになれない。街で知らない高校生がおそろいのキーホルダーをかばんにつけて並んで歩いたりしているとかわいいな、と思うと同時に、どうしてもけっと思ってしまう。特に理由はないが、多分どこかで私は「おそろい」を、互いを縛る鎖のように感じているのだと思う。でも憧れる。私もみんなと同じように輪の中に入りたい。でもおそろいは嫌だ(うわー!意味わからん!)。

 だから私にとっての理想は例えばクリスマスにみんなで店内放送のBGMを聴いて盛り上がるのではなく、あの人は山下達郎のクリスマスイブを、この人はバッハのクリスマス・オラトリオを、という風に同じテーマを持ちつつみんなで完全に同じ方向を向かない楽しみ方だ。みんなで同じことを楽しみつつ、でもノリまでは統制されていないなら私もきっともっとクリスマスを楽しめるだろうなと思う。

 

open.spotify.com

6月🏳️‍🌈🏳️‍⚧️

 

  6月はプライド月間だ。と言われてもぴんとこない人もいるかもしれない。プライド月間とは、世界中でLGBTQ+の支持を表明したり、その権利について訴えかける期間のことである。

  この期間中、さまざまな場面で見かけるのがレインボーフラッグ(🏳️‍🌈←これ)だ。絵文字では6色だが、もともとはピンク、赤、橙、黄、緑、ターコイズ、青、バイオレットの8色で構成されている(ピンク色の生地を調達するのが難しいからこの色になったそうだ)。この8色はそれぞれピンクがセクシュアリティ、赤が人生、オレンジが癒し、黄色が日光、緑が自然、ターコイズがマジック、青がハーモニー、バイオレットが魂を意味している。レインボーフラッグにはこれ以外にもたくさん種類があって、たとえばピンクと水色と白の旗(🏳️‍⚧️←これ)はトランスジェンダーフラッグといって、水色は男の子をピンクは女の子を、白は移行中の人、性別が無い人、または中立な人を表しているそうだ(レインボーフラッグにはこれ以外にもたくさん種類があるので、気になった人は参考文献の二つ目のリンクに飛んでみてね)。

 

  レインボーフラッグとその色の意味するところを知ったとき、私は正直がっかりした。みんなが生きやすい社会を目指す活動の場でも、またピンクに「女性らしさ」が割り当てられている。以前私は、ピンクは社会的文化的に「女の子っぽさ」を背負わされすぎていて苦しい、というようなことを書いた。「ピンクが好きなんて女の子っぽいね!」という言葉を何度またかだるいねんほんま、と思いながら聞いたことか。「ピンク」がレースだったり、恋愛もののドラマだったり、甘いものだったこともある。

   そういう経験が積み重なって飽き飽きした結果として、私の中には女性嫌悪があるのだと思う(認めたくないことだけど)。現実の女性に向けられたものではなく、社会的文化的に「女の子っぽい」とされる要素を避けたり軽んじたりする傾向が小学校高学年のあたりからずっとあった。今はかなり薄くなったけれど、それでもピンクにはまだやはり抵抗がある。

   しかし私はやっぱり可愛いものが好きだ。甘いものも好きだ。私がそういうものを好きなのは、私が私だからであって、私が女の子だからではない。もちろん女らしくとか男らしくとかそんな理由で服装とか持ち物の傾向を押し付けられることは絶対あってはならないけれど、私は(もちろん私以外の人も)、どんな人であろうと堂々と「女の子っぽい」ものを好きであっていい。あとこれを読んでる身内に対して、私が覚えてないだけで昔女性嫌悪をあなたに向けていたら本当にごめんなさい。ここで謝るのもおかしいけどここでしか謝れないと思うので…  こういうことを言われたというのを覚えている人がいたら連絡ください、戒めにします。

    書いていて思い出したのだが、幼稚園の時の私はメゾピアノが好きだった。ピンクでレースとリボンとラインストーンがたくさんついた「女の子」のための服屋さん。とってもかわいい。あの時メゾピアノをかわいいと感じた私を私は絶対押し殺さない。

 

open.spotify.com

 

・参考文献

 

プライド月間(Pride Month)とは?【日本・海外の動き、企業の取り組み】

https://jobrainbow.jp/magazine/pride-month

 

LGBTの象徴】レインボーフラッグ(旗)の全て【なぜ6色?いつから?】

https://iris-lgbt.com/blog/2022/05/12/rainbowflag_lgbts/#tid-25

・さいごに

間違っている点や不適切な表現があれば教えて頂けると幸いです!



私と図書館

昔住んでいたところの最寄りの図書館は自転車でスーパーや産業廃棄物処理場(だったのかも今となってはよくわからない)も延々と続く住宅地も畑も超えた遠いところにあった。遠いといっても小学生の私の漕ぐ自転車で20分かかるくらいなのでそんなに遠くはなかったけど、でもあの図書館の話をしようとするとどうしても私は辺境の地とか人里離れたとかそういう修飾語を思い浮かべてしまう。当時の私にとってあの図書館は日常から離れた世界で、同級生との付き合い方がわからなくなるといつも図書館に行きたいと思っていた。田舎だからあの大きな空き地の周りには何もなくて、あの空間は図書館のために存在しているみたいで、その尊大な佇まいが私は好きだった。

小学校を卒業してからは私は地元を離れた中学校に入った。案の定浮いた。今思うと誰も悪くないし当然のことだし一人は好きな方だったが、それでもやはり苦しかった。もうあんな思いはしたくないし誰にもしてほしくないと思う。話が逸れた。私は街の図書館に行ったけれど、結局大きいだけで不親切な図書館には馴染めなかった(けれど併設のカフェのチーズトーストはおいしかった)。今もう一度行くと結構楽しめるのかもなとも思う。また話が逸れたが、とにかく私は周囲の環境に馴染めなかった(なんて月並みな言葉なんだろう!)。

そこで私は学校の図書室に通い詰めた。校舎の最上階にあった図書室はあの図書館と同じ辺境のにおいがして、私はたちまち好きになった。最上階にある図書室と下界(これは後に図書室にいる私に対して教室を表現するために友人が用いた表現で私が言い出したわけではないです。念のため。自分で言ってたらだいぶ感じ悪い)の教室を10分の休憩時間の間に階段で行き来するのは体力的にかなりしんどかったけど本を読むのは楽しかったし、完全に辛い気持ちが紛れるわけではなかったけど、本を読んでいる間は本を読んでいる人として存在できているみたいで落ち着いた。私は私の孤独を守るために本を読み続けた。尊厳を保つために、と言ってもいいかもしれない。友達がいなくて一人でも、そうしていると私は自分のことを気高い女王様のように思えた。どう考えても滑稽だけどそれは私にとって切実な振る舞いだった。そのおかげで何とか今生きている。のだろう。

だから何というわけでもないし、この話にオチはない。せっかく読んでくれたのにごめんね。本は間接的な人と人の対話で、人は結局人にしか救えないとかそういう普遍的な言葉でこの文章を締めるつもりは全くない。独りよがりかもしれないがこれは完全に私が私のために書いた文章だ。ただ生きていれば救われることがあるかもしれないし、その救いをもたらすのは人じゃない場合もあるし、人は一人でも十分救われうるし、友達がいなくてもどうにか生きていけるし(これを読んでくれた友達が誤解をしないように一応書いておくとあなたがたのことはだいすきです。今度プリ撮ろうぜ)、というようなことが書きたかった。毎回ブログの締めがわかんなくてぐだぐだになるのをやめたいです。

 

おわり

昔人前で話したこと、の語り直し

 人は人のことを完全に理解できないという信念を私は持っている。他人だけでなく自分のこともおそらく何一つ完全にわからないまま生きて死んでゆく。

 だから人は究極的には孤独だ。誰にも理解されないのだから。少なくとも私にとって、無理解は孤独だ。

 

(ふと思ったのだが、私にとって究極の愛って相手を完全に理解することなのかも!でもそんなことは無理だから、今の私にとって愛は相手のことを知ろうとすることだ。もちろん分からないところがあっても相手を愛することはできるかもしれないけど、それでも 分かり合いたいと思う気持ちは愛じゃないだろうか)

 

 けれどその孤独もまた、人と分かち合えないものだろう。だからこそ私はその孤独をいとおしく思う。それは私のアイデンティティだ。今目の前にいるあなたと決して分かり合えないこと、分かち合えないものをこそ尊いと思う。そして同じように、私と分かり合えないあなたのことも尊いと思いたい。

 

(と聖人君子ぶって書いてしまったが、実際の私は「なんで分かってくれないの!」と怒り、「どうしてもあの人のことが分からない」と悲しんでいる しかも怒っている回数の方が多い。だって意味わかんないんだも~ん)

 

 だから私は私の、あなたはあなたの孤独の中を歩むしかない。けれどそこから私は逃げたくない。というかたぶん逃れられない。分かり合えないことこそを道しるべとして歩もうね~~~